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松山城 (愛媛県)2012年09月10日 09時10分10秒

(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・天守閣)===

名  称 : 松山城 (まつやまじょう) 別 名 : 金亀城 ・ 勝山城

築城年間 :  慶長7年(1602年)

築城者  : 加藤嘉明 (かとうよしあき)   

主な改修者 : 松平勝善

城 主 :  加藤氏 ・ 松平(久松)氏

形 式 :  連立式平山城(安政元年1854年復興)

所在地 : 愛媛県松山市丸之内1 城山公園内

(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・天守閣)===
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松山城の創建者は、加藤嘉明である。嘉明は、永禄6年(1563年)に三河国(愛知県)永良郷賀気村に生まれた。父広明は徳川氏譜代の武士であったが6歳の時に美濃国(岐阜県)で逝去した。 孤児となった嘉明は諸国を流浪し、やがて羽柴秀吉に見出されてその家臣となった。20歳の時賤ヶ岳の合戦に加わり、七本槍の一人として、武勲をたてたことは余りにも有名である。

その後従五位下、左馬助に補せられ、文禄の役の戦功によって伊予国正木(伊予郡松前町)六万石の城主に封ぜられた。 その後慶長の役(1597年)においても活躍し、十万石に加増され、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに徳川家康に従軍し、その戦功が認められて二十万石となった。 そこで嘉明は同7年(1602年)に道後平野の中枢部にある勝山に城郭を、その周辺部に城下町を築くため、足立重信を普請奉行に命じて工事に着手した。

翌8年(1603年)10月に嘉明は、家臣および正木の住民とともに居を新城下に移すこととなり、初めて松山という名称が公けにされ、その後も工事は継続された。 当時の天守閣は五層で偉観を誇っていた。嘉明は松山にあること25年、寛永4年(1627年)に会津へ移った。 その後へ蒲生氏郷(がもううじさと)の孫、忠知が出羽国(山形県)上ノ山城から入国し二之丸の造営を完成した。 在城僅か7年のち寛永11年(1634年)8月参勤交代の途中京都で病没し、嗣子がなかったので断絶した。

その後、寛永12年(1635年)7月伊勢国(三重県)桑名城主松平定行が松山城主15万石に封ぜられて以来世襲して、明治維新に至った。 なお天守閣は、寛永19年(1642年)に三層に改築されたが、天明4年(1784年)落雷で焼失した。 文政3年(1820年)から再建工事を企画し、35年の歳月を経て、安政元年(1854年)に復興した。これが現在の天守閣である。 標高132メートルの勝山山頂に本丸を置き、中腹に二之丸、山麓に三之丸(堀之内)を置いた。広大な規模を持ち、姫路城、和歌山城とともに典型的な連立式平山城である。

===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・太鼓櫓の石垣)===

太鼓櫓は太鼓櫓から巽(たつみ)櫓までは、大手面に対する連続した本丸防衛ラインを構築する一連の建物群となっています。本丸の南西に位置する太鼓櫓は大手方面の眺めのよいところに建てられており、戦の合図のための太鼓が置かれたことからこの名が残っています。

(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・戸無門下の石垣)===
(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・本丸筒井門・隠門下の石垣)===
(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・大手門跡の石垣)===
(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・馬具櫓後方は天守群)===

手前から馬具櫓・後方右から天守閣・小天守・南隅櫓

(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・小天守)===

紫竹門付近から小天守を見る 。右側より小天守左側は南隅櫓

小天守閣は追手方面を防衛、からめ手方面を側防し、二ノ丸・三ノ丸方面を監視できる位置にあります。小天守閣の大棟には両端に瓦のしゃちほこがおかれており、その威厳を示しています。

(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・乾門東続櫓===

乾門内桝形から見る乾櫓古町口登城道が本丸に達する地点に設けられた、搦手(からめて:裏側)方面の防備のための2重の隅櫓である乾(いぬい)櫓は、窓は格子・突上げ構造で、腰袴式ではなく出窓式の石落しが設けられている。

(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・野原櫓===
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この櫓は、乾櫓(いぬいやぐら)の東の本丸石垣に臨んで建てられ、北側搦手(からめて)の山林に対応する2層櫓で、本丸西北を防備するための櫓である。屋根は入母屋造、本瓦葺。軒は一重、軒裏は波形漆喰塗籠(しっくいぬりごめ)である。平面的には桁行5間、梁間3間(使用尺度は6尺5寸間)の1階の大入母屋屋根の中ほど上に、2間半角の2階をのせており、通柱は見られない。これは城郭建築が、大屋根上の物見櫓から発達したとする天守望楼起源説の名残を示すものとして注目される。  この櫓は騎馬櫓とも呼ばれ、加藤嘉明が慶長年間(1596年~1614年)に築城した当時に新しく建築した建物と伝えられる。本城最古の建物で、豪放な木割り、礫(れき)詰めの太鼓壁、化粧屋根裏などの構造と、石落し・狭間(さま)の備えを含め、築城当初の面影をよく留める貴重な建物である。

(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・北隅櫓===

北隅櫓は小天守北ノ櫓とか申酉小天守とも呼ばれ、大天守に次ぐ格式をもつ櫓です。十間廊下は天守の搦手(裏手)にあたる西側の乾門方面を防衛する重要な櫓であって、北隅櫓と南隅櫓を連結する通路でもあります。桁行が10間あることからこの名がつけられています。

(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・南隅櫓===
(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・現在の乾門(いぬいもん)===
(写真をクリックすると大きくなります)===松山城・焼失前の乾門===

乾門(いぬいもん)搦手(からめて)のなかで最も重要な構えを持つ脇門附きの櫓門である。 慶長年間築城の際正木城(伊豆郡松前町)から移建されたといわれる。 昭和10年国宝に指定されたが同20年7月に戦災のため焼失したので同57年11月に古い資料に基づいて復元された。

===(現地説明板より)===

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