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豊浦山 神上寺 ⑨2009年08月01日 14時47分58秒

(写真をクリックすると大きくなります)===近松門左衛門出生伝説地説明板=== 江戸時代の初め、身重になった女中が世に憚って出産したいと、神上寺に救いを求めてきた。然し、神上寺は女人禁制で囲うこともできず、山門前の寺侍木川家に総てを頼んだ。木川家では家の前の川沿いの地に小屋掛けして住まわせ、月満ちて男子が誕生した。その後、時を経て、西市などで浄瑠璃芝居があると、その作者は近松門左衛門で、神上寺山門前で生まれた男の子その人であもということで、この地を近松屋敷と言うようになった。以上が、神上寺前一帯から、豊田郷に広く伝わる伝説である。 (参考)下関の郷土史家 吉村藤舟の説長府藩家老 椙杜元周の子息、広品(ひろがず)(13才)と、その子守役の奥女中との間に生まれたのが、即ち、この小屋で生まれた男子である。この子を平馬と名付け、神上寺で養われていたが、母と別れて、赤間関 永福寺から、唐津の近松寺で僧侶となり祖門と称じて上洛した。京都では還俗して越前藩の杉森家に寄宿して、椙杜信盛と称したのが、後の近松門左衛門であるという。
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◇◇近松門左衛門出生伝説地◇◇
江戸時代の初め、身重になった女中が世に憚って出産したいと、神上寺に救いを求めてきた。然し、神上寺は女人禁制で囲うこともできず、山門前の寺侍木川家に総てを頼んだ。木川家では家の前の川沿いの地に小屋掛けして住まわせ、月満ちて男子が誕生した。その後、時を経て、西市などで浄瑠璃芝居があると、その作者は近松門左衛門で、神上寺山門前で生まれた男の子その人であもということで、この地を近松屋敷と言うようになった。以上が、神上寺前一帯から、豊田郷に広く伝わる伝説である。
(参考)下関の郷土史家 吉村藤舟の説長府藩家老 椙杜元周の子息、広品(ひろがず)(13才)と、その子守役の奥女中との間に生まれたのが、即ち、この小屋で生まれた男子である。この子を平馬と名付け、神上寺で養われていたが、母と別れて、赤間関 永福寺から、唐津の近松寺で僧侶となり祖門と称じて上洛した。京都では還俗して越前藩の杉森家に寄宿して、椙杜信盛と称したのが、後の近松門左衛門であるという。
===現地説明板より===

豊浦山 神上寺 ⑧2009年08月01日 14時40分00秒

(写真をクリックすると大きくなります)菊舎 山鳥のほろゝ身にしむ小春かな 女流文人・菊舎は宝暦三年(1753年)豊浦郡田耕(たすき)村に田上家の長女道(みち)として生まれました。道は一六歳で同村の農家、村田利之助に嫁ぎますが同年、村医者をしていた父由永は長府田上家を継ぐため、長府印内に移住し長府藩士となります。二四歳で夫と死別した道は実家に復籍。長府の五精庵只山(しざん)に菊車の号を与えられ(後、菊舎に改める)俳人としての歩みを始めました。天明元年(1781年)二九歳にして長府を立った菊舎はまず大津郡の八幡人丸神社に参詣し文運を祈り、当時長州の真宗寺院の総元締めだった萩の真宗清光寺で得度を受け俳諧修行の一人旅に出ています。
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女流文人・菊舎は宝暦三年(1753年)豊浦郡田耕(たすき)村に田上家の長女道(みち)として生まれました。道は一六歳で同村の農家、村田利之助に嫁ぎますが同年、村医者をしていた父由永は長府田上家を継ぐため、長府印内に移住し長府藩士となります。二四歳で夫と死別した道は実家に復籍。長府の五精庵只山(しざん)に菊車の号を与えられ(後、菊舎に改める)俳人としての歩みを始めました。天明元年(1781年)二九歳にして長府を立った菊舎はまず大津郡の八幡人丸神社に参詣し文運を祈り、当時長州の真宗寺院の総元締めだった萩の真宗清光寺で得度を受け俳諧修行の一人旅に出ています。

豊浦山 神上寺 ⑦2009年08月01日 14時36分24秒

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神上寺護摩堂左側は大いちょうの木や宝きょう印塔、菊舎句碑、水子地蔵、 三十三観音像石仏、などがあります。
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神上寺護摩堂横にある石段は華山(げさん)登山口につながる道です。 ここから頂上までの距離は約2.6kmあります。

豊浦山 神上寺 ⑥2009年08月01日 14時34分38秒

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===神上寺護摩堂===
神上寺護摩堂横には温座堂跡があり、そこに無数の石仏があります。

豊浦山 神上寺 ⑤2009年08月01日 14時32分45秒

(写真をクリックすると大きくなります)===神上寺本堂=== 神上寺は、約1300年前の天智天皇の時代に、九州の彦山で修行していた役小角が来て、この地の徳仙上人と協力して大神山(現在の華山げさん)に開山した山岳霊場で、宝亀七年(776)に御堂が建立されました。元亨二年(1322年)御堂が麓に近い現在地に移された。そこで、大神山を下山(華山)と呼ぶようになったという。同寺は朝廷や諸将の祈願所とされ、最盛期には末寺末院が三千余坊に及び、「西の高野山」とも呼ばれるまでに発展しましたが、2度の大火などにより今は中ノ坊だけが残されています。本堂には有形文化財指定の木造薬師如来座像が鎮座しています。
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神上寺は、約1300年前の天智天皇の時代に、九州の彦山で修行していた役小角が来て、この地の徳仙上人と協力して大神山(現在の華山げさん)に開山した山岳霊場で、宝亀七年(776)に御堂が建立されました。元亨二年(1322年)御堂が麓に近い現在地に移された。そこで、大神山を下山(華山)と呼ぶようになったという。同寺は朝廷や諸将の祈願所とされ、最盛期には末寺末院が三千余坊に及び、「西の高野山」とも呼ばれるまでに発展しましたが、2度の大火などにより今は中ノ坊だけが残されています。本堂には有形文化財指定の木造薬師如来座像が鎮座しています。
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◇◇神上寺本堂の屋根瓦の中央に毛利家の家紋が目立ちます。◇◇

豊浦山 神上寺 ④2009年08月01日 14時30分13秒

(写真をクリックすると大きくなります)===茶室無心庵=== 神上寺参道口より仁王門を通り100m位上るとに右側に下ノ坊跡、石垣があり、この上に雪舟庭と茶室、無心庵があります。夏は新緑のもみじの木が綺麗でこの茶室からの眺望は格別ではないでしょうか?秋の紅葉時期にもう一度散策したいものです。
神上寺参道口より仁王門を通り100m位上るとに右側に下ノ坊跡、石垣があり、 この上に雪舟庭と茶室、無心庵があります。夏は新緑のもみじの木が 綺麗でこの茶室からの眺望は格別ではないでしょうか? 秋の紅葉時期にもう一度散策したいものです。
(写真をクリックすると大きくなります)===下ノ坊跡石垣===

豊浦山 神上寺 ③2009年08月01日 14時25分42秒

(写真をクリックすると大きくなります)===神上寺仁王像===
この神上寺仁王門の左右には一対の仁王像(木彫り)が立置されていますが、年代が古く仁王像全体の塗料などはほとんど色彩はみられません。昔は前面が金網でしたが最近は木枠の格子が取り付けられていて写真もとれずとても残念です。
===(神上寺仁王像===写真をクリックすると大きくなります)

豊浦山 神上寺 ②2009年08月01日 14時20分25秒

(写真をクリックすると大きくなります)===神上寺仁王門=== 神上寺は文武天皇(西暦697~707年)のときに、役行者がこの地の徳仙上人と力を併せて開山したのに始まると伝えられ、古来、皇室、藩主の祈願所とされ、「西の高野山」とも言われています。明治維新までは、当寺域に6ヶ寺がありましたが今は、中の坊だけが残っています。
◇◇◇豊浦山神上寺( じんじょう寺)◇◇◇
神上寺は文武天皇(西暦697~707年)のときに、役行者がこの地の徳仙上人と力を併せて開山したのに始まると伝えられ、古来、皇室、藩主の祈願所とされ、「西の高野山」とも言われています。明治維新までは、当寺域に6ヶ寺がありましたが今は、中の坊だけが残っています。
===現地説明板より===
===現地説明板===(写真をクリックすると大きくなります)

豊浦山 神上寺 ①2009年08月01日 14時10分51秒

===神上寺参道入り口===
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(写真をクリックすると大きくなります)===神上寺由来記===
◇◇◇神上寺由来記◇◇◇神上寺は高野山金剛峰寺派真言宗の名刹で西の高野山と称され朝廷諸将藩主の尊崇厚く幕末まで毛利藩主の保護を受け300石を賜った由緒ある古刹である。今から約1,300年前天智天皇の御代、九州彦山に修行していた役小角が瑞雲の懸る北方の高山を眺めて馳せ来りこの地の徳仙上人と力を合せて開山し、山頂に諸神を招いて祭りこの山を大神山と称した。奈良時代元正天皇の時権現に定められ上中下三所権現の社を建て参詣の道を開いたので邑人の信仰が厚くなった。  平安時代朱雀天皇の御代に真言天台兼学の沙門唯行上人により、中宮に大御堂を造営されてから日増に繁栄し末寺末院が三千余坊に及んだという。  天慶の乱に戦勝祈願の勅願あり一条天皇の御代土佐伊予の乱にも御祈願があり1万3千の神々を勧請されたその為この山辺を神原と呼び、大神山を神上山と改められた。  鎌倉時代の初め、後鳥羽天皇の代建久5年に勅を以て愛染明王をまつり昼夜不退の温坐の供養が行わせられた。  後醍醐天皇元享二年に堂舎を現在の位置に下ろされた。そこでこの山をこれから下山(後に月山、現在は華山)と呼ぶことになり、寺の名を豊浦山神上寺と改められた。
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◇◇◇神上寺由来記◇◇◇
神上寺は高野山金剛峰寺派真言宗の名刹で西の高野山と称され朝廷諸将藩主の尊崇厚く幕末まで毛利藩主の保護を受け300石を賜った由緒ある古刹である。今から約1,300年前天智天皇の御代、九州彦山に修行していた役小角が瑞雲の懸る北方の高山を眺めて馳せ来りこの地の徳仙上人と力を合せて開山し、山頂に諸神を招いて祭りこの山を大神山と称した。奈良時代元正天皇の時権現に定められ上中下三所権現の社を建て参詣の道を開いたので邑人の信仰が厚くなった。  平安時代朱雀天皇の御代に真言天台兼学の沙門唯行上人により、中宮に大御堂を造営されてから日増に繁栄し末寺末院が三千余坊に及んだという。  天慶の乱に戦勝祈願の勅願あり一条天皇の御代土佐伊予の乱にも御祈願があり1万3千の神々を勧請されたその為この山辺を神原と呼び、大神山を神上山と改められた。  鎌倉時代の初め、後鳥羽天皇の代建久5年に勅を以て愛染明王をまつり昼夜不退の温坐の供養が行わせられた。  後醍醐天皇元享二年に堂舎を現在の位置に下ろされた。そこでこの山をこれから下山(後に月山、現在は華山)と呼ぶことになり、寺の名を豊浦山神上寺と改められた。
===現地説明板より===