今日はです
楊貴妃の里① ― 2009年02月23日 14時06分51秒
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(写真をクリックすると大きくなります)===現地説明板===
唐の幻想皇帝の寵愛を一身に受けた楊貴妃は、安録山の乱に合って蜀へ逃避する途中、長安の郊外、馬嵬の仏堂で絞殺されたと史書には示されております。しかし、巷では楊貴妃は実際は死んでいないという噂もあったようで、有名な「長恨歌」の中にも日本への東航を想像させる表現があります。 ここ久津の地では、昔から楊貴妃にまつわる伝説が語り継がれてきました。二尊院に残されている江戸時代の文書には、次のような言い伝えが記されています。唐の天保拾五年七月(756年)空艫舟に乗った楊貴妃は唐渡目というところへ漂着、まもなく死去し拾うたので里人相より当寺院に埋葬した。玄宗皇帝の重い切なるため貴妃の霊が彼地に往来したのか、幾夜か夢枕に立たれ、皇帝は楊貴妃の死を知った。愛情やるかたなく追善のため、彌陀、釈迦の二尊像と拾参重の大宝塔を持たせ、家来の陳安を日本に遣わした。 陳安は探したが、楊貴妃がいずれの地に漂着したか分からず、やむなく京都の清涼寺へ二尊仏を預けて帰国した。後に漂着地が久津と分かったが、清涼寺では本朝無二の霊仏として評判が高かったため、手放すのが惜しくなった。そこで全く々仏像を仏工の名手に作らせ、新旧の仏像一体ずつを清涼寺と当寺院で分けて安置することになった。その後、楊貴妃の墓、侍女の碑を漸く建てることが出来た。 以上が伝説の大要で、中央の五輪塔が楊貴妃の墓といわれるものです。
===現地説明板より===
唐の幻想皇帝の寵愛を一身に受けた楊貴妃は、安録山の乱に合って蜀へ逃避する途中、長安の郊外、馬嵬の仏堂で絞殺されたと史書には示されております。しかし、巷では楊貴妃は実際は死んでいないという噂もあったようで、有名な「長恨歌」の中にも日本への東航を想像させる表現があります。 ここ久津の地では、昔から楊貴妃にまつわる伝説が語り継がれてきました。二尊院に残されている江戸時代の文書には、次のような言い伝えが記されています。唐の天保拾五年七月(756年)空艫舟に乗った楊貴妃は唐渡目というところへ漂着、まもなく死去し拾うたので里人相より当寺院に埋葬した。玄宗皇帝の重い切なるため貴妃の霊が彼地に往来したのか、幾夜か夢枕に立たれ、皇帝は楊貴妃の死を知った。愛情やるかたなく追善のため、彌陀、釈迦の二尊像と拾参重の大宝塔を持たせ、家来の陳安を日本に遣わした。 陳安は探したが、楊貴妃がいずれの地に漂着したか分からず、やむなく京都の清涼寺へ二尊仏を預けて帰国した。後に漂着地が久津と分かったが、清涼寺では本朝無二の霊仏として評判が高かったため、手放すのが惜しくなった。そこで全く々仏像を仏工の名手に作らせ、新旧の仏像一体ずつを清涼寺と当寺院で分けて安置することになった。その後、楊貴妃の墓、侍女の碑を漸く建てることが出来た。 以上が伝説の大要で、中央の五輪塔が楊貴妃の墓といわれるものです。
===現地説明板より===
楊貴妃の里② ― 2009年02月23日 14時10分44秒
楊貴妃の里③ ― 2009年02月23日 14時14分43秒
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(写真をクリックすると大きくなります)===現地説明板===
この石は、「盃状穴」と言います。ニ尊院(向津具)の五輪塔前の墓地あったものです。盃状穴は、ヨーロッパの旧石器時代、洞穴の壁画に描かれた赤や黒の斑紋が、その源であろうと考えられています。スカンジナビア、フィンランド、中央アジア、シベリア、韓国などにも見られるもので、スウェーデンのように民間信仰として今に伝わっている所もあります。石に穴を穿ち、穴に物を入れてお祈りしたものですが、向津具地区では、何を入れて何を祈ったのか、いつまで信仰があったのかわかっていません。石のあった場所が楊貴妃伝説のある五輪塔近くであることから、子供のことや一家の繁栄などをお祈りしたのではなかろうかと思われます。
===現地説明板より===
この石は、「盃状穴」と言います。ニ尊院(向津具)の五輪塔前の墓地あったものです。盃状穴は、ヨーロッパの旧石器時代、洞穴の壁画に描かれた赤や黒の斑紋が、その源であろうと考えられています。スカンジナビア、フィンランド、中央アジア、シベリア、韓国などにも見られるもので、スウェーデンのように民間信仰として今に伝わっている所もあります。石に穴を穿ち、穴に物を入れてお祈りしたものですが、向津具地区では、何を入れて何を祈ったのか、いつまで信仰があったのかわかっていません。石のあった場所が楊貴妃伝説のある五輪塔近くであることから、子供のことや一家の繁栄などをお祈りしたのではなかろうかと思われます。
===現地説明板より===
楊貴妃の里④ ― 2009年02月23日 14時20分22秒
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(写真をクリックすると大きくなります)===盃状穴===
この石は、「盃状穴」と言います。ニ尊院(向津具)の五輪塔前の墓地あったものです。盃状穴は、ヨーロッパの旧石器時代、洞穴の壁画に描かれた赤や黒の斑紋が、その源であろうと考えられています。スカンジナビア、フィンランド、中央アジア、シベリア、韓国などにも見られるもので、スウェーデンのように民間信仰として今に伝わっている所もあります。石に穴を穿ち、穴に物を入れてお祈りしたものですが、向津具地区では、何を入れて何を祈ったのか、いつまで信仰があったのかわかっていません。石のあった場所が楊貴妃伝説のある五輪塔近くであることから、子供のことや一家の繁栄などをお祈りしたのではなかろうかと思われます。
この石は、「盃状穴」と言います。ニ尊院(向津具)の五輪塔前の墓地あったものです。盃状穴は、ヨーロッパの旧石器時代、洞穴の壁画に描かれた赤や黒の斑紋が、その源であろうと考えられています。スカンジナビア、フィンランド、中央アジア、シベリア、韓国などにも見られるもので、スウェーデンのように民間信仰として今に伝わっている所もあります。石に穴を穿ち、穴に物を入れてお祈りしたものですが、向津具地区では、何を入れて何を祈ったのか、いつまで信仰があったのかわかっていません。石のあった場所が楊貴妃伝説のある五輪塔近くであることから、子供のことや一家の繁栄などをお祈りしたのではなかろうかと思われます。
楊貴妃の里⑤ ― 2009年02月23日 14時25分47秒
楊貴妃の里⑥ ― 2009年02月23日 14時38分27秒
楊貴妃の里⑦ ― 2009年02月23日 14時40分01秒
楊貴妃の里⑧ ― 2009年02月23日 14時42分50秒
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(写真をクリックすると大きくなります)===二尊院本堂===
二尊院創建は大同年間(806~810)伝教大師最澄が遣唐使から帰朝の際の開基と伝えられる古刹で往昔は15の末寺を従える天台宗の大寺院でした。 長い歴史の中でいつの頃からか宗旨を真言宗へと改め、毛利家の菩提所として隆盛するも、幾多の兵火、天災等に遭い次第に規模を狭め現在の寺観となりました。 また、楊貴妃伝説を伝え境内には楊貴妃の墓(県指定重要文化財)を祀りその菩提を弔うため、本尊である二尊仏〔釈迦如来・阿弥陀如来(いずれも国指定重要文化財)〕を安置しております。 絶世の美女として知られる楊貴妃を慕い、二尊仏とお墓を女性が参拝すると美しく綺麗な子宝を授かり安産のご利益に恵まれると伝えられ古くから信仰を集めています。 また、美人にあやかり縁結びの祈願をされる方も少なくありません。
二尊院創建は大同年間(806~810)伝教大師最澄が遣唐使から帰朝の際の開基と伝えられる古刹で往昔は15の末寺を従える天台宗の大寺院でした。 長い歴史の中でいつの頃からか宗旨を真言宗へと改め、毛利家の菩提所として隆盛するも、幾多の兵火、天災等に遭い次第に規模を狭め現在の寺観となりました。 また、楊貴妃伝説を伝え境内には楊貴妃の墓(県指定重要文化財)を祀りその菩提を弔うため、本尊である二尊仏〔釈迦如来・阿弥陀如来(いずれも国指定重要文化財)〕を安置しております。 絶世の美女として知られる楊貴妃を慕い、二尊仏とお墓を女性が参拝すると美しく綺麗な子宝を授かり安産のご利益に恵まれると伝えられ古くから信仰を集めています。 また、美人にあやかり縁結びの祈願をされる方も少なくありません。
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