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日田 永山城(丸山城) 跡②2009年03月01日 10時16分19秒

(click..play)(click..play) (写真をクリックすると大きくなります)===説明板===

===豆田町は、慶長六年(1601年)から九年にかけて、小川壱岐守光氏が月隈山に丸山城を築いた際、友田村から民家を移して城下町をつくったのに始まる。初め丸山町と云ったが、元和年間町づくりを継続した石川忠総のとき豆田町を改められた。整然とした屋敷割りと旧街路名は、初めからのものである。ある時期を除いて、日田が幕府直轄の天領となるのは、両小川氏が代官となった寛永十六年(1639年)からである。明和四年(1767年)揖斐十太夫が、代官から昇格し西国筋郡代となって以後はじめ代官として着任しても後には郡代に昇格している。また最初から郡代として着任した者もある。代官・郡代の権威と結びついて、大名の御用達や、公金の出納を担当した掛屋になった商人が台頭した。この掛屋の中で、草野家、手島家、千原家、広瀬家、などは、豆田町に居を構えた。中でも、広瀬淡窓の生家である。広瀬家で、初めて掛屋となった久兵衛の土木事業や府内藩の財政改革などの活躍は、広く知られている。町人の町として繁栄した豆田町も明和九年(1772年)の大火、明治十三年の平野町ー八幡町の大火によって大きな被害を受けた。それらの災禍を乗り越えて、再興された町並みが今日残っている町並の基礎をなしている。豆田町の町並みの特徴は、江戸時代初期の町割が、ほぼ完全に残っていること江戸時代から現在までの各時代の特徴を持つ家屋が混在していることである。 ===
豆田町は、慶長六年(1601年)から九年にかけて、小川壱岐守光氏が月隈山に丸山城を築いた際、友田村から民家を移して城下町をつくったのに始まる。初め丸山町と云ったが、元和年間町づくりを継続した石川忠総のとき豆田町を改められた。整然とした屋敷割りと旧街路名は、初めからのものである。ある時期を除いて、日田が幕府直轄の天領となるのは、両小川氏が代官となった寛永十六年(1639年)からである。明和四年(1767年)揖斐十太夫が、代官から昇格し西国筋郡代となって以後はじめ代官として着任しても後には郡代に昇格している。また最初から郡代として着任した者もある。代官・郡代の権威と結びついて、大名の御用達や、公金の出納を担当した掛屋になった商人が台頭した。この掛屋の中で、草野家、手島家、千原家、広瀬家、などは、豆田町に居を構えた。中でも、広瀬淡窓の生家である。広瀬家で、初めて掛屋となった久兵衛の土木事業や府内藩の財政改革などの活躍は、広く知られている。町人の町として繁栄した豆田町も明和九年(1772年)の大火、明治十三年の平野町ー八幡町の大火によって大きな被害を受けた。それらの災禍を乗り越えて、再興された町並みが今日残っている町並の基礎をなしている。豆田町の町並みの特徴は、江戸時代初期の町割が、ほぼ完全に残っていること江戸時代から現在までの各時代の特徴を持つ家屋が混在していることである。
===現地説明板より===

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