ようこそ! あなたは アクセスカウンター 番目のお客様です
今日はです

角牟礼城(大分県玖珠)2010年02月21日 11時04分13秒

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===現地案内説明板===
(C) Script by ja4chu

◇◇◇角牟礼城跡は標高577mで、古くから石垣のある山城として知られている。 天然の要害と呼ぶにふさわしく三方を切り立った険しい岩壁で囲まれている。 角牟礼城跡の名が史料に初めて登場するのは、文明7年(1475年)の志賀親家文書である。 その後、天文2年(1532年)や翌3年には「角牟礼新掘之事」や「角牟礼勤番在城」と出てくるように、角牟礼城跡は古くから、豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の城として、玖珠郡衆により守られていた城である。 天正14年、15年(1585年・1586年)の島津氏と大友氏の豊薩戦では、唯一落城しなかった要害堅固の城として有名でもある。 文禄2年(1593年)には、豊臣秀吉が、文禄の役で失態をおかした大友義統を除国し、翌年に日田郡に宮木長次、玖珠郡に毛利高政を入部させた。 慶長元年(1596年)からは毛利高政が日田・玖珠郡2万石を支配したことが、秀吉の「朱印状」や「黒田家譜」からも知られる。 今回発掘調査で発見された門跡や現存する石垣は、この時期に築かれたものと考えられている。 従って、この城跡は文禄3年頃、豊後の要の城から、領国支配のための近世城郭へと生まれ変わる時期のものだとみられる。 そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、毛利高政は佐伯城主に転封され、一時黒田孝高の預かり地となるが、代わって伊予より来島康親が入部する。 しかし、来島は1万4000石の小大名であり、城を持つことは許されず、現在の三島公園に陣屋を築き、山城は「正保の絵図」(1644年)に古城と書かれているように、そのまま放置され、長い歴史の幕を閉じることになる。 平成5年から町教委により発掘調査が行われ、本丸に階段状の虎口(出入口)、大手門と搦手門に同じ規模の門跡、また二の丸には礎石建物が発見されている。 2つの門には瓦が葺かれていたと考えられている。 ===所在地===大分県玖珠郡玖珠町森

(写真をクリックすると大きくなります)336x367===縄張り図説明板より拡大===
(click..play)(click..play)

◇角牟礼城跡は標高577mで、古くから石垣のある山城として知られている。天然の要害と呼ぶにふさわしく三方を切り立った険しい岩壁で囲まれている。角牟礼城跡の名が史料に初めて登場するのは、文明7年(1475年)の志賀親家文書である。その後、天文2年(1532年)や翌3年には「角牟礼新掘之事」や「角牟礼勤番在城」と出てくるように、角牟礼城跡は古くから、豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の城として、玖珠郡衆により守られていた城である。天正14年、15年(1585年・1586年)の島津氏と大友氏の豊薩戦では、唯一落城しなかった要害堅固の城として有名でもある。文禄2年(1593年)には、豊臣秀吉が、文禄の役で失態をおかした大友義統を除国し、翌年に日田郡に宮木長次、玖珠郡に毛利高政を入部させた。慶長元年(1596年)からは毛利高政が日田・玖珠郡2万石を支配したことが、秀吉の「朱印状」や「黒田家譜」からも知られる。今回発掘調査で発見された門跡や現存する石垣は、この時期に築かれたものと考えられている。従って、この城跡は文禄3年頃、豊後の要の城から、領国支配のための近世城郭へと生まれ変わる時期のものだとみられる。 そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、毛利高政は佐伯城主に転封され、一時黒田孝高の預かり地となるが、代わって伊予より来島康親が入部する。しかし、来島は1万4000石の小大名であり、城を持つことは許されず、現在の三島公園に陣屋を築き、山城は「正保の絵図」(1644年)に古城と書かれているように、そのまま放置され、長い歴史の幕を閉じることになる。平成5年から町教委により発掘調査が行われ、本丸に階段状の虎口(出入口)、大手門と搦手門に同じ規模の門跡、また二の丸には礎石建物が発見されている。2つの門には瓦が葺かれていたと考えられている。


===現地説明案内板より===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===搦手門石垣===
(C) Script by ja4chu

◇◇◇この石垣は搦手門といわれているが、角牟礼城跡で一番立派な石垣であり、「穴太積み」(あのうずみ)の特徴をよく残す石垣である。高さ7.5m。長さ約100mの石垣は自然石を無造作に積み上げているが、そこには計算されたバランスがあり堅固な石垣となっている。

(click..play)(click..play)
◇◇◇搦手門石垣◇◇◇

この石垣は搦手門(からめてもん)といわれているが、角牟礼城跡で一番立派な石垣であり、「穴太積み」(あのうずみ)の特徴をよく残す石垣である。高さ7.5m。長さ約100mの石垣は自然石を無造作に積み上げているが、そこには計算されたバランスがあり堅固な石垣となっている。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===搦手門跡石垣===
(C) Script by ja4chu

◇◇◇この角牟礼城跡では、南側にある城門で井戸曲輪に入る虎口(出入口)でもある。 東側の通路を上り詰めると右手に、礎石建物跡が検出されてる。 礎石は大手門の櫓門と同規模で瓦や陶磁器から大手門櫓と同じか近接した年代が考えられる。

(click..play)(click..play)

角牟礼城跡では、南側にある城門で井戸曲輪に入る虎口(出入口)でもある。 東側の通路を上り詰めると右手に、礎石建物跡が検出されてる。 礎石は大手門の櫓門と同規模で瓦や陶磁器から大手門櫓と同じか近接した年代が考えられる。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===井戸曲輪跡===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===三の丸跡===
(C) Script by ja4chu

◇◇◇この三の丸跡は城としての歴史は古く、中世の山城跡と、近世の城跡の両方を残し、城の変遷を知るうえで貴重な史跡とされています。文禄3年(1594年)から慶長5年(1600年)にかけて、秀吉の家臣で日田日隈城主の毛利高政が玖珠の拠点として整備しました。穴太積みの石垣はこのとき構築されたと言われています。

(click..play)(click..play)
◇◇◇三の丸跡◇◇◇

この三の丸跡は城としての歴史は古く、中世の山城跡と、近世の城跡の両方を残し、城の変遷を知るうえで貴重な史跡とされています。文禄3年(1594年)から慶長5年(1600年)にかけて、秀吉の家臣で日田日隈城主の毛利高政が玖珠の拠点として整備しました。穴太積みの石垣はこのとき構築されたと言われています。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===二の丸跡===
(C) Script by ja4chu

◇◇◇この二の丸跡は、石垣に囲まれた南北に長い曲輪で、標高544mに位置する。 曲輪奥の南側からは東西約10m、南北約7mの礎石建物跡が検出されている。 瓦の出土がないから板葺きか茅葺きと考えられる。

(click..play)(click..play)
◇◇◇二の丸跡◇◇◇

この二の丸跡は、石垣に囲まれた南北に長い曲輪で、標高544mに位置する。 曲輪奥の南側からは東西約10m、南北約7mの礎石建物跡が検出されている。 瓦の出土がないから板葺きか茅葺きと考えられる。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===礎石建物跡===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===伝大手門跡===
(C) Script by ja4chu

◇◇◇この伝大手門は西側にある城門。角牟礼城を代表する外桝形虎口で、二の門と考えられる位置から礎石建物が検出されている。 織豊時代の攻撃的な構えであるが、城全体の縄張りから大手門とするには疑問があると思われる。

(click..play)(click..play)
◇◇◇伝大手門◇◇◇

この伝大手門は西側にある城門。角牟礼城を代表する外桝形虎口で、二の門と考えられる位置から礎石建物が検出されている。 織豊時代の攻撃的な構えであるが、城全体の縄張りから大手門とするには疑問があると思われる。

(写真をクリックすると大きくなります)800x600===伝大手門跡石垣===
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===本丸跡===

角埋山頂上部に位置し、標高は577mで周囲には土塁を巡らせてる。 北側には石垣が築かれ、石垣上面の東隅に櫓建物が検出されている。 南側からは階段状の虎口が検出されている。


(写真をクリックすると大きくなります)800x600===本丸跡全景===

本丸跡の周囲は照葉樹の原生林に覆われ、鳥獣保護区に指定され、動・植物の宝庫である。 平成17年角牟礼城跡は、国指定史跡となりました。


(写真をクリックすると大きくなります)800x600===隅櫓跡===
本丸隅櫓跡。本丸の北側には石垣が築かれ、石垣上面の東隅に約6m×4mの櫓建物が検出された。
(写真をクリックすると大きくなります)800x600===本丸よりの眺望===
本丸跡の周囲は照葉樹の原生林に覆われ、鳥獣保護区に指定され、動・植物の宝庫である。 平成17年角牟礼城跡は、国指定史跡となりました。◇所在地===大分県玖珠郡玖珠町森(角埋山)===