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異人館 (旧鹿児島紡績所技師館) (鹿児島県)2012年03月04日 20時26分51秒

(写真をクリックすると大きくなります)==旧鹿児島紡績所技師館==

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この旧鹿児島紡績所技師館、通称・異人館と呼ばれるこの建物は、我が国における初期の西洋建築物として現在は国の重要文化財の指定を受けています。また、平成21年には「九州・山口の近代化産業遺産群の構成資産」の一つとして世界文化遺産暫定リストにも登録されており、幕末維新時の産業発展の象徴ともいえる文化遺産でもあります。蘭癖大名の異名をもつ曽祖父の重豪の影響を受けた斉彬は、海外の文化や情報に精通し、藩主就任後は西欧諸国のように近代化政策を推し進めるべく、ガラス製造や鋳物、造船、紡績、出版など数々の『集成館事業』を展開しました。斉彬の死後は、島津家第29代忠義がその意思を受け継ぎ、就成所と呼ばれる工場群に紡績工場の建設も手がけます。薩摩藩英国留学生であった五代友厚が、留学先のイギリスで紡績機械の買い入れと技師招聘交渉に成功し「ホーム・リンガー商会」の開設者のイー・ホームや工務長のジョン・テットロウなど、鹿児島紡績所の建設と操業のためにイギリスから6名の技師が招かれました。技師らの宿舎として慶応3年(1867年)に建てられたのが、この異人館です。

(写真をクリックすると大きくなります)===尚古集成館===
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仙巌園入り口から尚古集成館・駐車場にかけての一帯は、幕末、薩摩藩主、島津斉彬が築いた工場群「集成館」の跡地で、国の史跡文化財に指定されています。機械工場(現尚古集成館本館・重要文化財)や反射炉跡、工場の動力用水路跡が存在し、さらに地中には多くの遺構・遺物が眠っています。斉彬は、植民地化政策を進める西欧列強のアジア進出に強い危機感を抱いていました。日本が植民地にされないためには、日本を西欧諸国のような強く豊かな国に生まれかわらせなければならないと考え、嘉永四年(1851年)薩摩藩主に就任すると、集成事業という富国強兵・殖産興業政策を推進しました。

集成館はその中核となった工場群の総称で、鉄鉄砲を鋳造する反射炉、反射炉に鉄を供給する溶鉱炉、砲身を穿つ鑽開台、蒸気機関の研究所、ガラス工場などがあり、最盛期には1200名もの人が働いていました。安政五年(1858年)斉彬が急死すると集成館は大幅に縮小され、文久三年(1863年)の薩英戦争でイギリス艦隊の攻撃を受け焼失しました。しかし斉彬の弟久光と、久光の長男で家督を継承した忠義の手で集成館は復興されました。

(写真をクリックすると大きくなります)===尚古集成館===

尚古集成館本館はこの時建てられた機械工場です。集成館事業により、薩摩藩は日本最高水準の技術力・工業力を持つにいたり、明治維新ではその威力が発揮されました。明治四年(1871年)、集成館は官有となりました。明治10年、私学校徒がここを襲撃して西南戦争が勃発、政府軍がすぐに奪還し、再奪還を図る西郷軍と攻防戦を繰り広げたため、多くの工場が焼失し荒廃しました。戦後、民間に払い下げられましたが振るわず、大正四年(1915年)廃止されてしまいました。大正八年、機械工場は改装され、同十二年島津家の歴史資料館「尚古集成館」がオープンしました。

===現地説明板より===

仙巌園 (磯庭園) (鹿児島県)2012年03月05日 19時33分43秒

(写真をクリックすると大きくなります)===仙巌園正門===

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仙巌園は、江戸時代には歴代当主の別邸として、明治以降は磯島津公爵邸として、使われてきました。万治元年(1658年)、島津光久(19代当主)が、家老鎌田政近の旧宅だった大磯下津浜門屋敷(鹿児島城下北部)を御用地に定め、御仮屋を築いて「仙巌園」と名付けました。寛文12年(1672年)、屋敷の南に一亭を築いて、その翌年正月に同亭内で落成の宴を催したところ、二羽の鶴が庭先に舞い降りたのを嘉瑞として「喜鶴亭」とも呼ばれました。「錫門」や「望嶽楼」もこの時代に建てられたと伝えられています。古文書に「磯御仮屋守」「磯奉行」といった役名が見えることから、築庭当初から仙巌園を管理する役職がおかれていたようです。明治以降廃藩置県が行われると鹿児島城に熊本鎮台の分隊が置かれたため、明治5年(1872年)、島津忠義(29代当主)の妻子は鹿児島城を退去し、仙巌園 磯御茶屋に移り住みます。それ以降、仙巌園は島津本家の生活の場となり、「磯御殿」と呼ばれるようになりました。

明治17年(1884年)に御殿の大規模な改築・修繕を行い、また御庭方小田喜三次に命じて「獅子乗大石灯籠」を造りました。明治20年(1887年)に実父島津久光が没したのを機に、明治21年(1888年)、忠義は鹿児島県貫属(かんぞく/明治期、地方自治体の管轄に属すること。明治17年(1884年)まで、旧藩主は東京在住を命じられていましたが)許可されて鹿児島に移り住んだことから、仙巌園は島津本家の本邸となりました。明治28年(1895年)、大重伊三次に命じて総門を造り、これを「正門」に定めました。忠義が明治30年(1896年)12月に没し、翌明治31年(1897年)4月に、島津忠重(30代当主)が東京に移住したため、磯邸は島津家別邸となりました。終戦後の昭和24年(1949年)には鹿児島市の管理となり、「磯公園」として一般開放されましたが、昭和32年(1957年)に当社に返還され、現在に至っています。

石橋記念公園(鹿児島県)2012年03月13日 16時08分04秒

(写真をクリックすると大きくなります)===西田橋と西田橋御門===

所在地:鹿児島県鹿児島市浜町1-3.

形式:石橋四連アーチ

石工:岩永三五郎

橋長:49.5m:橋幅: 6.2m :完成:1846年(弘化3年)

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この西田橋は九州街道の道筋にあって参勤交代の列が通った西田橋は、城下の玄関口として藩の威光を誇示した橋で、名石工:岩永三五郎の代表作でもあります。石橋への架け替えの際にも、由緒ある橋として木橋時代の青銅製擬宝珠をそのまま使い、丸柱の精巧な高欄とするなど、他の橋に比べて約3倍もの建設費がかかり当時の金額で約7127両余りが、かかったようです。また 橋のたもとには西田橋御門が再現されていますが、この門は西田橋の左岸にあって城下の武士や町人、領内を通行する旅人は御門脇の番所で改めを受けて通行していたようです。

(写真をクリックすると大きくなります)===(岩永三五郎之像)===

◇◇◇岩永三五郎◇◇◇
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岩永三五郎顕彰の由来、肥後の石工 岩永三五郎幸安は、寛政五年(1793年)熊本県八代郡東陽村に生まれ、「性質淡薄寡欲にして、まことに良工なりしは人の能く知る所にして、水利を視、得失を考え、大数を測るに敏なる、はじめて見る地といえども神のごとし」と評され、その人物、土木技術のすぐれたること薩摩に聞こえ、天保十一年(1840年)、時の家老調所広郷に一族共々招かれ、藩内一円の営繕、土木事業の責任者として、その腕をふるった。  すなわち、阿久根の古田修繕、出水、国分、加治木の新田開発、市来の水道、伊集院から出水への道路、山川指宿から鹿児島への道路、鹿児島本港護岸工事(三五郎波止場)、井堰、稲荷川、甲突川の河川改修、西田橋をはじめとするその眼鏡橋の築造は鹿児島、川内、串木野、指宿の各地におよび、三五郎およびその一族にいたっては九州各地に190余りの眼鏡橋を架橋し、なかでも三五郎の甥丈八は、明治政府に招かれ皇居の二重橋等々を架橋した。  薩摩藩在中十年もの間、地元の石工共々その献身的な働きにより幾多の土木事業を成し遂げた。岩永三五郎は、嘉永二年(1849年)薩摩を去り、嘉永四年(1851年)十月五日、八代郡鏡町芝口にて五十九才で没す。  ここに岩永三五郎はじめ、その一族の労苦に思いを馳せ、その偉業を後世に伝えるものである。

現地:岩永三五郎顕彰碑より

(写真をクリックすると大きくなります)===西田橋と西田橋御門===

西田橋御門は、城下の玄関口にあった西田橋の性格を表す重要な施設です。発掘調査で確認された橋との位置関係を保って、残っていた写真や市内の仙巌園の門などから構造仕様を推定して復元的に整備されています。