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高知城 (高知県)2012年08月19日 03時48分22秒

(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・天守閣===

名  称 : 高知城 (こうちじょう) 別 名 : 鷹 城 ・ 大高坂城

築城年間 :  慶長3年(1603年)

築城者 : 山内一豊   主な改修者 :  山内豊敷

城 主 :  山 内 氏

形 式 :  梯郭式 平 山 城

所在地 :  高知県高知市丸ノ内1丁目2-1

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高知城は、もと大高坂城といい、南北朝時代に大高坂松王丸が南朝に応じ、これに拠って北朝方と戦ったと伝えられる。戦国時代、長宗部元親は土佐一国を平定、さらに兵を進めて四国を併呑し、天正16年(1588年)ここに築城した。

しかし城下に水難が多いため、数年を経ず浦戸に移った。山内一豊は、関ヶ原の戦功により、遠州掛川(6万石)から土佐(24万石)に封ぜられ、慶長6年(1601年)9月百々越前守を築城奉行に任じて工を起し、2年後、本丸を完成した。享保12年(1727年)越前町より出火し、全域大半類焼。同14年再建に着手。慶長創建の姿にならって施工し、24年を経て宝暦3年(1753年)11月竣工して現在に至っている。

明治維新後、二の丸、三の丸の建造物を破壊し、本丸と追手門のみを残して、城域を整理し、花木を植え、公園とした。昭和9年1月、天守閣及び追手門の建物が国宝(現在の重要文化財)に、昭和34年に城域一帯が史跡に指定された。また明治6年、県立都市公園となった。戦後は各建造物の修理に着手。追手門は昭和26年に、天守閣は同30年に、その他の諸建造物は34年3月に、それぞれ改修竣工した。

===現地説明板より===
(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・追手門 ===

この高知城の追手門は慶長年間の創設で、寛文4年(1664年)に再建されたもので、当城では珍しく大きな石を積んだ石垣で枡形を構成し、内部から見通せないように右側に建てられた城の正門である。重層で入母屋造り、その木割りは太く堂々とし、ケヤキを用いた主柱や扉、冠木などには要所に銅製の飾り金具を取り付けている。その規模が大きく、城門として豪壮優美な趣を備えています。

(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・追手門東北矢狭間塀 ===

この追手門東北矢狭間塀は、江戸中期(1747年~1749年)に創建され、延長27.6m、銃眼五箇所、本瓦葺で重要文化財に指定されています。

(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・山内一豊公之像 ===

土佐藩の初代藩主、山内一豊公の銅像は、平成8年(1996年)9月20日、一豊の祥月命日を卜して再建除幕されたものです。本体はブロンズ鍛造青銅色仕上げ、高さ4.32メートル、重さ3.6トン、台座5.08メートル、総高9.4メートルで、騎馬像としては、皇居前の楠木正成公の像を上回る、国内最大クラスであるといわれております。

(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・三の丸石垣===
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三の丸は、慶長6年(1601年)の築城開始から10年を要して最後に完成した。面積は4.641㎡、出隅部分の石垣の高さは約13m、石垣に使用されている石材は主にチャート(堆積岩)であるが、砂岩、石灰岩も一部使用されており、穴太衆(あのうしゅう)が安土城の石垣で始めたとされる自然石むの形を活かした野面積(のずらずみ)で多くの面が構築されている。

また、三の丸には、1.815㎡の壮大な御殿が建築されていた。三の丸の入り口にあたる鉄門付近の石垣は、鉄門の改築に伴い積み直されたものと見られ、砂岩で構成された打ち込みハギで築かれている。今回の解体修理に伴う発掘調査でチャートの根石(基礎石)が確認され、改めてその事実が確認された。

三の丸の石垣は、慶長3年(1650年)、宝永4年(1707年)に地震や豪雨により、崩壊し、修理した記録が見られる。今回の修理は、平成11年に実施した調査により、割れたり、孕んだ石が多く、崩落の危険性が確認されたことから、平成12年度から事前の発掘調査や測量などを実施した後、鉄門付近から東面の花壇前まで実施した。

工事は、改修前の石垣の状態を把握した後、割れた石以外は元の石を使用し、元の場所に戻すことなど現状復旧を基本として実施した。改修工事は、穴太衆の野面積みの技法を現代に伝える石工が携わって平成16年度から平成21度にかけて実施、総工費約4億円を要した。

===現地説明板より=== 
(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・鉄門跡石垣 ===

この場所には左右の高い石垣をまたいで入母屋造り二階建ての門が設けられていた。鉄門の扉には鉄板が打ち付けられていたので鉄門と称された。小さな枡形を形作っている門の内側には番所があった。右と正面の石垣上(三の丸)には矢狭間塀がめぐらされていた。

(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・詰 門===

本丸と二ノ丸をつなぐ役目を果たす櫓門で、藩政時代には「橋廊下」と呼ばれた。門内に侵入した敵が容易に通り抜けられないよう、入口と出口の扉の位置が「筋違い」に設置されている。一階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵になっており、二階は家老・中老などの詰所として用いられた。現在の呼称はここからきているものである。

(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・天守石垣と矢狭間塀 ===

矢狭間塀は、丸、三角、長方形といろいろ形があります。丸や三角が鉄砲、長方形が矢で攻撃する構造になっています。

(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・天守西北矢狭間塀 ===

この天守西北矢狭間塀は、延長5.8m、で、おもに矢で攻撃する構造になっています。

(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・天守閣石垣===
(写真をクリックすると大きくなります)===高知城 ・天守閣全景 ===
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高知城の天守は望楼型天守の典型である。外観は4重、内部は3層6階建ての建物で、2重の入母屋造りの屋根の上に2重櫓の望楼を載せている。天守最上階には、初代藩主一豊が、先の居城である遠州掛川城を模して造ったといわれる廻縁高欄が付けられているが、この形式は、当時の四国では高知城のみに見られる極めて珍しいものであった。構成上から見ると、高知城天守は小天守や付櫓を伴わず単独で建つ独立式天守と呼ばれるものである。

「御城築記」によると、高知城天守は慶長8年(1603年)に完成したと思われる。享保12年(1727年)の大火によって焼失し、現存天守は寛延2年(1749年)に再建されたものである。昭和の解体修理工事の際の調査から、創建当時の姿がそのまま踏襲されていることが明らかとなった。現在、古天守を持つ城は、全国にわずか12城しか残っていない。高知城天守はその中の一つとして初期の古い様式を今に伝えており、現在国の重要文化財に指定されている。

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