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天ヶ城(高岡城) ①(宮崎県)2008年08月10日 12時30分32秒

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慶長5年(1600年)第17代島津家当主島津義弘は、関ヶ原の合戦に敗れ、日向細島を経て帰国途中、八代村(現・国富町)に宿泊しました。「関ヶ原天下分目の戦」と全国が見守ったこの合戦で、徳川家康の勝利が全国に知れわたると、島津氏と長年戦ってきた伊東氏の重臣、清武城主、稲津掃部介は、「島津氏を滅ぼして伊東氏の旧領を取り戻すのは、この時期以外にはない。」と考えます。彼は、即座に兵を率いて、宮崎を平定北進し、佐土原城下に迫り、その一部は、義弘が宿泊している八代村に向かって進軍しました。それに対して、島津領内の近傍の領主達は、取るものも取りあえず、八代村へ兵を進め、ようやくのこと稲津の兵を食い止めると、義弘は、兵数十名を引き連れて八代村を脱出し、かろうじて鹿児島にたどり着くことができました。義弘は、この事件を経験して、国境警備の必要性を痛感し、伊東氏に備えるため、久津良名(現高岡中央部)を城地に取り立て、城を「天ヶ城」と命名し、島津氏と関係の深かった地域から武士多数を強制移住させました。そして、比志島紀守国貞を初代地頭に任命し、「高岡」を前線の要としました。これが、「高岡郷」の創設とされています。その後、元和元年(1615年)に一国一城令が布かれると、天ヶ城は廃城となり、城にいた武士たちは、全員城を引き払い、麓(現高岡市街地)に下り住みました。天ヶ城は、山の自然の地形を上手に利用した山城であったとされています。
    高岡町教育委員会 (現地案内板より)

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