ようこそ! あなたは アクセスカウンター 番目のお客様です
今日は2025年5月30日(金曜日)です

宇土城 ①2008年09月12日 08時45分54秒

(click..play) (写真をクリックすると大きくなります)
               現地案内板
天正16年・1588年・九州征伐を終えた豊臣秀吉は肥後北半国を加藤清正に与えると同時に、肥後南半国24万石を小西行長に与えました。 小西行長は鎌倉時代末期に宇土氏によって築かれた、宇土古城に入城したが、翌天正17年1589年・宇土古城の東の地に新たな城の築城を開始しました。行長は築城に際して、天草地方の諸豪族に城普請の手伝いを命じたが反抗されたため、加藤清正と連合して天草征伐を行い、その後、本格的な築城にとりかかりました。この城が宇土城である。 宇土城はキリシタン大名の小西行長が築いただけに、南蛮技術も取り入れた重厚な城郭であった。

宇土城 ②2008年09月12日 08時51分52秒

(click..play) (写真をクリックすると大きくなります)
          宇土城本丸跡に立つ小西行長像
天正16年(1588)、肥後一揆勃発による佐々成政の後を受けて、小西行長は宇土・益城・八代・天草を拝領し14万6300石の大名として宇土に入部した。宇土には戦国時代に宇土氏、次いで名和氏が居城を構えていたが、行長は宇土に入部すると名和氏の城(宇土古城)が手狭であったため、その東の小丘に新城を築き、新城を中心に城下町を建設した。また、支配体制を整えるためにに領内の隈庄城(城南町)、木山城(益城)、岩尾・愛藤城(矢部町)、麦島城(八代市)を支城とし城代を置いた。 しかし、関ヶ原合戦で西軍につき敗れ、行長は捕らえられて斬首された。 合戦後、宇土城は肥後一国の領主となった加藤清正のものとなり城代が置かれたが、慶長16年(1611)清正が没すると、翌17年幕府の命令で宇土城は破却された。

宇土城 ③2008年09月12日 08時58分36秒

(click..play) (写真をクリックすると大きくなります)  
             宇土城本丸跡
いまでは本丸の跡は城山公園となっています。築城当時はここに三層天守閣があったと記されているがさだかではない、一説では廃城後に熊本城に存在する宇土櫓の材料として使用されたとも言い伝えられています。

宇土城 ④2008年09月12日 09時02分17秒

          (写真をクリックすると大きくなります)
             宇土城東側の石垣

宇土城 ⑤2008年09月12日 09時07分00秒

(写真をクリックすると大きくなります)
             北側の石垣と空堀跡

宇土城 ⑥2008年09月12日 09時12分23秒

(写真をクリックすると大きくなります)
南側石垣と空掘がいまでも完全な状態で残っています。この上には高い石垣があったが、いまでは取り壊され存在しない。

宇土城 ⑦2008年09月12日 09時14分46秒

(写真をクリックすると大きくなります)
            南側石垣と空堀跡

宇土城 ⑧2008年09月12日 09時17分47秒

(写真をクリックすると大きくなります)
           東側より低い石垣跡

宇土城 ⑨2008年09月12日 09時20分03秒

(写真をクリックすると大きくなります)
            北側の石垣と空堀跡

宇土城 ⑩2008年09月12日 09時22分49秒

(写真をクリックすると大きくなります)
          西側石垣この上が本丸跡