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天草 富岡城 ①2008年09月14日 10時10分15秒

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富岡城は慶長6年(1601年)に天草の領主となった、肥前唐津藩の寺沢志摩守広高によって慶長7年(1602年)頃から築かれました。その後、山崎家冶の私領時代、鈴木重成、重辰代官の天領時代を経て、戸田忠昌の私領時代に、城が壊されました。それ以後は、明治まで天領として三の丸に代官役所が置かれました。富岡城は、城歴のなかで特筆すべき事があります。寛永14年1637年に起こった、島原の乱、(天草・島原の乱)に巻き込まれ、幕府側の拠点として、一揆勢の攻撃目標になりました。唐津藩の必死の守りにより落城しなかったため、一揆勢は、華北町坂瀬川から船で原城へ向かうことになりました。この事が結果として乱の早期終結に繋がり、その後の徳川政権の安定に大きく寄与する事となったと思われます。乱の鎮圧後、築城の名手と謡われた山崎氏が、天草へ送り込まれ、多額の資金を与えられ城の大規模修理と縄張り拡大が行われました。この時期、幕府は海外列強の侵略を恐れ、鎖国政策を進めておりました。そのため、幕府は外洋に面した富岡城を整備し、万が一、海外列強が攻めてきたときの国諜戦線上の守りの城として位置付けていたのではないでしょうか。時代が降った寛文10年1670年に戸田氏により富岡城は破城されました。富岡城の城としての役割は約70年ですが、破城後は三の丸に代官所が設置され、幕末まで天草の行政の中心としての役割をはたしました。

天草 富岡城 ②2008年09月14日 16時18分55秒

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富岡城跡は半島の本体部分にあります。半島の東縁中央部分にあたる山を利用したものです。 ところで、海の方に目を向けますと、元袋(半島の北東端)から砂嘴が海上を南下しているのがわかります。地図で見ますと逆「し」の字形をしており、湾を形成しています。城跡から真東の所に砂嘴の屈曲部分があり、ここが湾の最大東西幅をなす所で、城跡の縁から約740mを測ります。一方、最大南北幅は約770m程になります。巴湾と呼ばれており、砂嘴の南端部に幅400mの開口部分があります。 富岡城跡と巴湾は一体化した地形となっています。一方、城跡の背後地は汐入りの谷を隔てて、小高い山々が西側へ連なっています。このように富岡城は、極めて地の利に恵まれた所に築城されていることがわかります。

天草 富岡城 ③2008年09月14日 16時24分30秒

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         国道側より富岡城本丸を望む

天草 富岡城 ④2008年09月14日 16時26分26秒

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この富岡城二の丸石垣について、天草は、慶長5年1600年関が原の戦いの後、唐津の寺沢広高の領地となりました。寺沢氏は天草統冶のため慶長7年1602年から富岡城を築きました。寺沢氏の支配時代の寛永17年1637年に、天草・島原の乱が勃発し、富岡城は一揆軍から攻撃を受けましたが、寺沢氏の必死の守りによって落城はまぬがれました。 天草・島原の乱後、山崎家冶の領地となりました。この時、幕府は資金を与えて富岡城の修復を命じ、約3年をかけて新たに大手門や百間土手を築き大修復を行いました。その後、鈴木代官の天領時代を経て、戸田忠昌支配の寛文10年1670年に、当地に城は必要ないということで富岡城は破城されました。町では、富岡城の復元整備の際、西側の石垣部分で三重の石垣が発掘され、寺沢氏、山崎氏の築いた石垣を確認しました。一番奥の石垣が寺沢氏の築いた石垣で、一揆軍との攻防戦の跡が石垣表面に残っております。二番目の石垣は、この石垣を隠すむために急造されたものらしく、途中で壊れたと考えられます。手前の石垣は、天草・島原の乱後の 領主である山崎氏が城の修復を行った際に築いたものです。このように、富岡城の石垣は三重の構造となっており、その時代の歴史を垣間見ることができる大変貴重なものです。
==現地案内説明板より==

天草 富岡城 ⑤2008年09月14日 16時29分57秒

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          富岡城二の丸石垣
富岡城は別名臥龍城と呼ばれ、慶長7年(1604)天草統治の根拠地として肥前唐津の城主・寺沢志摩守広高によって築かれました。寺沢藩時代の寛永14年に天草・島原の乱が起こり、一揆軍の猛攻に合いましたが落城はまぬがれました。 城は寛文10年(1670)戸田伊賀守忠昌が天草を去る際に、三の丸のみを残して破壊されました。天領時代は、三の丸に代官所が置かれ、天草の中心地として富岡は栄えました。 今は、当時の石垣が整備され、富岡城がよみがえりつつあります。

天草 富岡城 ⑥2008年09月14日 16時31分52秒

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これは富岡城二の丸石垣説明絵図です。
富岡城の復元整備の際、西側の石垣部分で三重の石垣が発掘され、寺沢氏、山崎氏の築いた石垣を確認しました。一番奥の石垣が寺沢氏の築いた石垣で、一揆軍との攻防戦の跡が石垣表面に残っております。二番目の石垣は、この石垣を隠すむために急造されたものらしく、途中で壊れたと考えられます。手前の石垣は、天草・島原の乱後の領主である山崎氏が城の修復を行った際に築いたものです。このように、富岡城の石垣は三重の構造となっており、その時代の歴史を垣間見ることができる大変貴重なものです。

天草 富岡城 ⑦2008年09月14日 16時46分36秒

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この富岡城二の丸石垣と白土塀白がとても綺麗に映えます、ここ二の丸石垣は戸田忠昌支配の寛文10年1670年に、当地に城は必要ないということで富岡城は破城されました。町では、富岡城の復元整備の際、西側の石垣部分で三重の石垣が発掘され、寺沢氏、山崎氏の築いた石垣を確認しました。一番奥の石垣が寺沢氏の築いた石垣で、一揆軍との攻防戦の跡が石垣表面に残っております。二番目の石垣は、この石垣を隠すむために急造されたものらしく、途中で壊れたと考えられます。手前の石垣は、天草・島原の乱後の領主である山崎氏が城の修復を行った際に築いたものです。このように、富岡城の石垣は三重の構造となっており、その時代の歴史を垣間見ることができる大変貴重なものです。

天草 富岡城 ⑧2008年09月14日 16時50分07秒

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          富岡城二の丸石垣

天草 富岡城 ⑨2008年09月14日 16時53分28秒

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           富岡城公園案内板

天草 富岡城 ⑩2008年09月14日 16時55分31秒

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         富岡城腰曲輪より二の丸石垣と白壁
富岡城規模 『天草嶋富岡地勢要因』 「古城山之事、城山但東西千四百廿間、南北九百五拾間、富岡ハ赤岩崎ヨリ水尻迄二十三町四十間、東西丸山ヨリ宇瀬迄拾五町、南北此反別四百四十九町六反六畝六歩、 一、本丸、東西二十間、南北拾二間、反別八畝歩、本丸ヨリニノ丸三十五間 一、二ノ丸、東西拾一間、南北四拾三間、反別一反五畝廿四歩」 『富岡町明細帳』寛延三年(1750)「古御城山ノ廻リ弐里余」