今日はです

原 城 跡 ②2008年09月13日 11時21分36秒

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           原城三の丸跡板倉重昌の古碑
板倉重昌は 1638年(寛永15年)1月1日明け七つ、三度目の総攻撃を決行しました。 久留米藩の有馬勢が大手から三の丸に、佐賀藩鍋島勢が搦手から三の丸出丸、松倉勢は搦手を攻めました。 さらに急遽出陣を命じられた熊本藩細川勢がこれに加わりました。 しかし一揆勢の猛攻撃に戦況は膠着。 重昌は意を決して馬から下り、搦手にあった松倉勢を助けるべく、二の丸寄り三の丸正面の塀際へ出たところを、 一揆勢の集中射撃を浴びて壮絶な討死を遂げました。 眉間を撃ち抜かれた、とも、胸部を撃たれた、とも、伝えられています。 享年52歳(または51歳)でした。 この時の幕府連合軍側の死傷者は4000人近くに上った、と云われています。 この総攻撃の直前、重昌は 「新玉の年の始めに散る花の 名のみ残らば魁と知れ (”散る”ではなく”咲く”とする説もあり)」という歌を残しています。 これが彼の辞世となりました。

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