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日田 永山城(丸山城) 跡⑥2009年03月01日 10時30分33秒

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永山城三の丸入り口大手門付近よりの石垣、白壁、水堀
(click..play)(click..play) ■ ■ ■陰徳倉碑■ ■ ■
===天領日田の代官に任ぜられた塩谷大四郎正義は文化十四年に着任した。以来十九年間、当時の施政官としては善政といえる業績を挙げた。「陰徳倉」もその一つである。江戸幕府は災害や飢饉に備えて米や雑穀を貯えておく制度をつくり、その代金「助合穀銀」を年貢と同様に撤収した。このため、かえって百姓の困窮は増すばかりとなった。塩谷代官はこれとは別に救い米を備蓄することにして、着任の二年後、豆田・隈の町年寄が発起の形で、世話人三名を設け両町の富裕者から米を寄付させた。代官陣屋の東南にあった畑地に四棟の倉を建て、七百俵あまりの米をこれに収納した。そしてみずから「陰徳倉」と名づけ、文を起草し、豆田町四十八名、隈町四十五名の寄付高、氏名とともに碑に刻んだ。この米は毎年新穀と入れ替え、文政五年隈町大火の際には放出されて効果を表した。
天領日田の代官に任ぜられた塩谷大四郎正義は文化十四年に着任した。以来十九年間、当時の施政官としては善政といえる業績を挙げた。「陰徳倉」もその一つである。江戸幕府は災害や飢饉に備えて米や雑穀を貯えておく制度をつくり、その代金「助合穀銀」を年貢と同様に撤収した。このため、かえって百姓の困窮は増すばかりとなった。塩谷代官はこれとは別に救い米を備蓄することにして、着任の二年後、豆田・隈の町年寄が発起の形で、世話人三名を設け両町の富裕者から米を寄付させた。代官陣屋の東南にあった畑地に四棟の倉を建て、七百俵あまりの米をこれに収納した。そしてみずから「陰徳倉」と名づけ、文を起草し、豆田町四十八名、隈町四十五名の寄付高、氏名とともに碑に刻んだ。この米は毎年新穀と入れ替え、文政五年隈町大火の際には放出されて効果を表した。
現地陰徳倉碑より

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