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武家屋敷(上小路)①2009年04月19日 10時35分06秒

(写真をクリックすると大きくなります)===武家屋敷上小路===
◇◇◇慶長四年(1599年)領主大村喜前が玖島城を築き、城下に主な家臣を集め、住まわせたのが武家屋敷街の始まりです。当初、本小路、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路、の五つの道りが造られ、「五小路」と呼ばれました。後には、その周囲にも屋敷が建ち、岩船、久原、日向平などの武家屋敷街も出来ています。上小路の呼び名は、古来、この付近の地名を尾上といっていたので,初め尾上小路と称していましたが、後に略して上小路を呼ぶようになりました。家老屋敷などの上級武士の屋敷が多く、五小路の中で最も長い通りでした。正面の白壁のある高い石垣は、家老浅田大学の屋敷の跡です。また、幕末勤王三十七士の中心人物、松林飯山の屋敷があり、大村騒動の発端となった松林飯山の暗殺事件もこの通りで起き、碑が建てられています。現在では江戸時代の屋敷は姿を消していますが、通りら残る石垣群は、昔の武家屋敷街をしのぶ貴重な文化財です。◇◇◇          (click..play)(click..play)
上小路(うわこうじ)跡

慶長四年(1599年)領主大村喜前が玖島城を築き、城下に主な家臣を集め、住まわせたのが武家屋敷街の始まりです。当初、本小路、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路、の五つの道りが造られ、「五小路」と呼ばれました。後には、その周囲にも屋敷が建ち、岩船、久原、日向平などの武家屋敷街も出来ています。上小路の呼び名は、古来、この付近の地名を尾上といっていたので,初め尾上小路と称していましたが、後に略して上小路を呼ぶようになりました。家老屋敷などの上級武士の屋敷が多く、五小路の中で最も長い通りでした。正面の白壁のある高い石垣は、家老浅田大学の屋敷の跡です。また、幕末勤王三十七士の中心人物、松林飯山の屋敷があり、大村騒動の発端となった松林飯山の暗殺事件もこの通りで起き、碑が建てられています。現在では江戸時代の屋敷は姿を消していますが、通りら残る石垣群は、昔の武家屋敷街をしのぶ貴重な文化財です。                   
現地説明版より

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