今日はです
玖島城 (大村城) ① ― 2009年05月17日 09時33分34秒
(写真をクリックすると大きくなります)===現地説明版===
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◇◇◇玖島城(大村城)跡◇◇◇
玖島城は、慶長四年(1599年)第十九代当主大村喜前が築いてから、第三十代純熙(幕末)に至るまで、約270年の間大村藩主の居城であった。喜前は、豊臣秀吉の死後、天下がふたたび乱れることを恐れて防備を固くするため、三方が海に囲まれた要害の地、玖島をえらんで本城を築き、三城からここに移った。慶長十九年(1614年)第二十代純頼によって、大改修が行われたが、この時、北側にあった大手口を本小路側に移した。城の設計は、善前公と親しかった築城の名人加藤清正と伝えられ築城奉行は長崎惣兵衛重方であった。この城は城郭研究家の評価も高く、とくに、扇勾配の曲線をえがく石垣が美しい。本丸跡には、歴代藩主を祭る大村神社が、明治十七年に建てられた。その境内のオオムラザクラは、珍しい二段咲きで、国の天然記念物に指定されている。城跡一帯は大村公園となり桜、つつじ、花しょうぶ、の名所として広く知られている。
===現地説明版より===
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===現地説明版より===
玖島城 (大村城) ② ― 2009年05月17日 09時37分52秒
写真をクリックすると大きくなります)===板敷櫓台===
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◇◇◇板敷櫓台◇◇◇
玖島城(大村城)は、慶長4年(1599年)、大村家19代喜前によって築かれ、30代純ひろ(幕末)まで、12代 約270年間に亘って大村藩2万7千石の居城でした。
喜前は豊臣秀吉の死後、天下の乱れることを恐れ、慶長の役で朝鮮へ出陣した時、海辺にある城は守りに強いという教訓を生かし、玖島の地を選んで城を築きました。
玖島と言う名の通り元は島で、今の国道側を埋め立てました。
慶長19年(1614年)、20代純頼の時に城の大改修を行い、それまで城の北側にあった大手門が現在の南側に移され、今日に至っています。
この大改修に先立って、肥後の加藤清正に意見を聞いたと記録されています。
城には天守閣はなく、館造りの建物でした。
明治初頭、建造物は取り壊されましたが、石垣はそのままで往時を偲ばせています。
現在では緑に囲まれた大村公園として四季折々の花が人々の目を楽しませています。
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玖島城 (大村城) ③ ― 2009年05月17日 09時40分07秒
(上写真をクリックすると大きくなります)===現地説明版===
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◇◇◇板敷櫓台説明版◇◇◇
大手入口から海側に延びるひときわ高い石垣の中で、扇勾配の見事な曲線を描いて築かれたのが、この板敷き櫓台である。
この上には2層の櫓が築かれていたものと思われる。
板敷櫓台とは、この辺りの地名を板敷と言うことからその名が付けられており、大村湾を望む展望の名所である。
玖島城は慶長4年(1599年)大村家第19代大村喜前により築城され、慶長19年(1614年)次の純頼の時に城の大改修が行われた。
その時に大手門と板敷櫓台に延びる石垣が築かれた。
この大改修にあたっては肥後の城主で、城づくりの名人と言われる加藤清正に意見を求めたという記録も残されている。
===現地説明版より===
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===現地説明版より===
玖島城 (大村城) ④ ― 2009年05月17日 09時40分50秒
(写真をクリックすると大きくなります)===板敷櫓台===
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◇◇◇板敷櫓台◇◇◇
大手入口から海側に延びるひときわ高い石垣の中で、扇勾配の見事な曲線を描いて築かれたのが、この板敷き櫓台である。
この上には2層の櫓が築かれていたものと思われる。
板敷櫓台とは、この辺りの地名を板敷と言うことからその名が付けられており、大村湾を望む展望の名所である。
玖島城は慶長4年(1599年)大村家第19代大村喜前により築城され、慶長19年(1614年)次の純頼の時に城の大改修が行われた。
その時に大手門と板敷櫓台に延びる石垣が築かれた。
この大改修にあたっては肥後の城主で、城づくりの名人と言われる加藤清正に意見を求めたという記録も残されている。
===現地説明版より===
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===現地説明版より===
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