今日はです

大村藩お船蔵跡 ①2009年05月16日 10時11分28秒

(写真をクリックすると大きくなります)===大村藩お船蔵跡===
◇◇◇大村藩お船蔵跡(県指定史跡) この船蔵は、玖島城に附属した施設で、4代藩主 大村純長が元禄年間(1688~1703年頃)に築造したものです。 ここには、殿様の使用した御座船をはじめ、藩の船が格納されました。 江戸時代、船は重要な交通手段でしたが、領地が海を取り囲む形の大村藩にとっては特に重要な乗物でした。 藩主が長崎をはじめ、領内各地に赴くときには、船が多く使われました。 このほか、兵員輸送や各種物資の運搬にも使われるなど、大いに活用されました。 したがって船蔵は、藩にとって重要な藩船を格納する場所であり、軍事面の備えのみでなく、交通産業面等でも藩を支えた施設でした。 この船蔵は、もとは外浦小路の入り口にあったことが記録に出ており、元禄年間に板敷浦(現在の場所)に移ったとされています。また板敷櫓下の発掘調査で船蔵跡が発見されています。 このお船蔵の後ろ(現在の教育センター付近)には、米倉や硝煙小屋があり、海を挟んで正面には船役所がありました。 当時は風雨を避けるため、石垣の上に柱を建て、屋根で覆っていたと思われ、柱穴の跡が石垣に残っています。 旧城郭の一部として、古い石組とドックなど昔の面影をそのまま残しており、このような船蔵遺構の例は数少なく、海城としての玖島城の特徴をよく表しています。海と密接な関係のあった大村藩の性格を伝える極めて貴重な文化財として県指定史跡となっています。◇◇◇
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大村藩お船蔵跡

大村藩お船蔵跡(県指定史跡)この船蔵は、玖島城に附属した施設で、4代藩主 大村純長が元禄年間(1688~1703年頃)に築造したものです。ここには、殿様の使用した御座船をはじめ、藩の船が格納されました。江戸時代、船は重要な交通手段でしたが、領地が海を取り囲む形の大村藩にとっては特に重要な乗物でした。藩主が長崎をはじめ、領内各地に赴くときには、船が多く使われました。このほか、兵員輸送や各種物資の運搬にも使われるなど、大いに活用されました。したがって船蔵は、藩にとって重要な藩船を格納する場所であり、軍事面の備えのみでなく、交通産業面等でも藩を支えた施設でした。この船蔵は、もとは外浦小路の入り口にあったことが記録に出ており、元禄年間に板敷浦(現在の場所)に移ったとされています。また板敷櫓下の発掘調査で船蔵跡が発見されています。このお船蔵の後ろ(現在の教育センター付近)には、米倉や硝煙小屋があり、海を挟んで正面には船役所がありました。当時は風雨を避けるため、石垣の上に柱を建て、屋根で覆っていたと思われ、柱穴の跡が石垣に残っています。旧城郭の一部として、古い石組とドックなど昔の面影をそのまま残しており、このような船蔵遺構の例は数少なく、海城としての玖島城の特徴をよく表しています。海と密接な関係のあった大村藩の性格を伝える極めて貴重な文化財として県指定史跡となっています。


===現地説明版より===

大村藩お船蔵跡 ②2009年05月16日 10時35分21秒


◇◇◇大村藩お船蔵跡(県指定史跡) この船蔵は、玖島城に附属した施設で、4代藩主 大村純長が元禄年間(1688~1703年頃)に築造したものです。 ここには、殿様の使用した御座船をはじめ、藩の船が格納されました。 江戸時代、船は重要な交通手段でしたが、領地が海を取り囲む形の大村藩にとっては特に重要な乗物でした。 藩主が長崎をはじめ、領内各地に赴くときには、船が多く使われました。 このほか、兵員輸送や各種物資の運搬にも使われるなど、大いに活用されました。 したがって船蔵は、藩にとって重要な藩船を格納する場所であり、軍事面の備えのみでなく、交通産業面等でも藩を支えた施設でした。 この船蔵は、もとは外浦小路の入り口にあったことが記録に出ており、元禄年間に板敷浦(現在の場所)に移ったとされています。また板敷櫓下の発掘調査で船蔵跡が発見されています。 このお船蔵の後ろ(現在の教育センター付近)には、米倉や硝煙小屋があり、海を挟んで正面には船役所がありました。 当時は風雨を避けるため、石垣の上に柱を建て、屋根で覆っていたと思われ、柱穴の跡が石垣に残っています。 旧城郭の一部として、古い石組とドックなど昔の面影をそのまま残しており、このような船蔵遺構の例は数少なく、海城としての玖島城の特徴をよく表しています。海と密接な関係のあった大村藩の性格を伝える極めて貴重な文化財として県指定史跡となっています。◇◇◇
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大村藩 新蔵波止跡2009年05月16日 10時39分29秒


(C) Script by ja4chu

◇◇◇新蔵波止は、 貞享3年(1686年)幕府が官米3000石を筑前から運んで預けた時、2棟の新蔵を建築時に、この波止を築きました、以後も藩船などの発着に利用しました。海に囲まれた玖島城には、大村藩お船蔵、新蔵波止、船役所跡など海運に関する施設が多く残っており、海城の特徴を見ることが出来ます。また、遠浅のため敵の兵が上陸できない上、城近くの遠浅の海の中には捨て堀を設けるなどしていましたので、一見平凡そうに見えても難攻不落の名城でした。 ◇◇◇
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◇◇◇新蔵波止◇◇◇
新蔵波止は、貞享3年(1686年)幕府が官米3000石を筑前から運んで預けた時、2棟の新蔵を建築時に、この波止を築きました、以後も藩船などの発着に利用しました。海に囲まれた玖島城には、大村藩お船蔵、新蔵波止、船役所跡など海運に関する施設が多く残っており、海城の特徴を見ることが出来ます。また、遠浅のため敵の兵が上陸できない上、城近くの遠浅の海の中には捨て堀を設けるなどしていましたので、一見平凡そうに見えても難攻不落の名城でした。

玖島城 (大村城) ①2009年05月17日 09時33分34秒

(写真をクリックすると大きくなります)===現地説明版===
◇◇◇玖島城は、慶長四年(1599年)第十九代当主大村喜前が築いてから、第三十代純熙(幕末)に至るまで、約270年の間大村藩主の居城であった。喜前は、豊臣秀吉の死後、天下がふたたび乱れることを恐れて防備を固くするため、三方が海に囲まれた要害の地、玖島をえらんで本城を築き、三城からここに移った。慶長十九年(1614年)第二十代純頼によって、大改修が行われたが、この時、北側にあった大手口を本小路側に移した。城の設計は、善前公と親しかった築城の名人加藤清正と伝えられ築城奉行は長崎惣兵衛重方であった。この城は城郭研究家の評価も高く、とくに、扇勾配の曲線をえがく石垣が美しい。本丸跡には、歴代藩主を祭る大村神社が、明治十七年に建てられた。その境内のオオムラザクラは、珍しい二段咲きで、国の天然記念物に指定されている。城跡一帯は大村公園となり桜、つつじ、花しょうぶ、の名所として広く知られている。◇◇◇
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◇◇◇玖島城(大村城)跡◇◇◇
玖島城は、慶長四年(1599年)第十九代当主大村喜前が築いてから、第三十代純熙(幕末)に至るまで、約270年の間大村藩主の居城であった。喜前は、豊臣秀吉の死後、天下がふたたび乱れることを恐れて防備を固くするため、三方が海に囲まれた要害の地、玖島をえらんで本城を築き、三城からここに移った。慶長十九年(1614年)第二十代純頼によって、大改修が行われたが、この時、北側にあった大手口を本小路側に移した。城の設計は、善前公と親しかった築城の名人加藤清正と伝えられ築城奉行は長崎惣兵衛重方であった。この城は城郭研究家の評価も高く、とくに、扇勾配の曲線をえがく石垣が美しい。本丸跡には、歴代藩主を祭る大村神社が、明治十七年に建てられた。その境内のオオムラザクラは、珍しい二段咲きで、国の天然記念物に指定されている。城跡一帯は大村公園となり桜、つつじ、花しょうぶ、の名所として広く知られている。
===現地説明版より===

玖島城 (大村城) ②2009年05月17日 09時37分52秒

写真をクリックすると大きくなります)===板敷櫓台===
◇◇◇玖島城(大村城)は、慶長4年(1599年)、大村家19代喜前によって築かれ、30代純ひろ(幕末)まで、12代 約270年間に亘って大村藩2万7千石の居城でした。 喜前は豊臣秀吉の死後、天下の乱れることを恐れ、慶長の役で朝鮮へ出陣した時、海辺にある城は守りに強いという教訓を生かし、玖島の地を選んで城を築きました。 玖島と言う名の通り元は島で、今の国道側を埋め立てました。 慶長19年(1614年)、20代純頼の時に城の大改修を行い、それまで城の北側にあった大手門が現在の南側に移され、今日に至っています。 この大改修に先立って、肥後の加藤清正に意見を聞いたと記録されています。 城には天守閣はなく、館造りの建物でした。 明治初頭、建造物は取り壊されましたが、石垣はそのままで往時を偲ばせています。 現在では緑に囲まれた大村公園として四季折々の花が人々の目を楽しませています。◇◇◇
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◇◇◇板敷櫓台◇◇◇
玖島城(大村城)は、慶長4年(1599年)、大村家19代喜前によって築かれ、30代純ひろ(幕末)まで、12代 約270年間に亘って大村藩2万7千石の居城でした。 喜前は豊臣秀吉の死後、天下の乱れることを恐れ、慶長の役で朝鮮へ出陣した時、海辺にある城は守りに強いという教訓を生かし、玖島の地を選んで城を築きました。 玖島と言う名の通り元は島で、今の国道側を埋め立てました。 慶長19年(1614年)、20代純頼の時に城の大改修を行い、それまで城の北側にあった大手門が現在の南側に移され、今日に至っています。 この大改修に先立って、肥後の加藤清正に意見を聞いたと記録されています。 城には天守閣はなく、館造りの建物でした。 明治初頭、建造物は取り壊されましたが、石垣はそのままで往時を偲ばせています。 現在では緑に囲まれた大村公園として四季折々の花が人々の目を楽しませています。

玖島城 (大村城) ③2009年05月17日 09時40分07秒

(上写真をクリックすると大きくなります)===現地説明版===
◇◇◇大手入口から海側に延びるひときわ高い石垣の中で、扇勾配の見事な曲線を描いて築かれたのが、この板敷き櫓台である。 この上には二層の櫓が築かれていたものと思われる。 板敷櫓台とは、この辺りの地名を板敷と言うことからその名が付けられており、大村湾を望む展望の名所である。  玖島城は慶長4年(1599年)大村家第19代大村喜前により築城され、慶長19年(1614年)次の純頼の時に城の大改修が行われた。 その時に大手門と板敷櫓台に延びる石垣が築かれた。 この大改修にあたっては肥後の城主で、城づくりの名人と言われる加藤清正に意見を求めたという記録も残されている。◇◇◇
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◇◇◇板敷櫓台説明版◇◇◇
大手入口から海側に延びるひときわ高い石垣の中で、扇勾配の見事な曲線を描いて築かれたのが、この板敷き櫓台である。 この上には2層の櫓が築かれていたものと思われる。 板敷櫓台とは、この辺りの地名を板敷と言うことからその名が付けられており、大村湾を望む展望の名所である。  玖島城は慶長4年(1599年)大村家第19代大村喜前により築城され、慶長19年(1614年)次の純頼の時に城の大改修が行われた。 その時に大手門と板敷櫓台に延びる石垣が築かれた。 この大改修にあたっては肥後の城主で、城づくりの名人と言われる加藤清正に意見を求めたという記録も残されている。
===現地説明版より===

玖島城 (大村城) ④2009年05月17日 09時40分50秒

(写真をクリックすると大きくなります)===板敷櫓台===
◇◇◇大手入口から海側に延びるひときわ高い石垣の中で、扇勾配の見事な曲線を描いて築かれたのが、この板敷き櫓台である。 この上には二層の櫓が築かれていたものと思われる。 板敷櫓台とは、この辺りの地名を板敷と言うことからその名が付けられており、大村湾を望む展望の名所である。  玖島城は慶長4年(1599年)大村家第19代大村喜前により築城され、慶長19年(1614年)次の純頼の時に城の大改修が行われた。 その時に大手門と板敷櫓台に延びる石垣が築かれた。 この大改修にあたっては肥後の城主で、城づくりの名人と言われる加藤清正に意見を求めたという記録も残されている。◇◇◇
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◇◇◇板敷櫓台◇◇◇
大手入口から海側に延びるひときわ高い石垣の中で、扇勾配の見事な曲線を描いて築かれたのが、この板敷き櫓台である。 この上には2層の櫓が築かれていたものと思われる。 板敷櫓台とは、この辺りの地名を板敷と言うことからその名が付けられており、大村湾を望む展望の名所である。  玖島城は慶長4年(1599年)大村家第19代大村喜前により築城され、慶長19年(1614年)次の純頼の時に城の大改修が行われた。 その時に大手門と板敷櫓台に延びる石垣が築かれた。 この大改修にあたっては肥後の城主で、城づくりの名人と言われる加藤清正に意見を求めたという記録も残されている。
===現地説明版より===

玖島城 (大村城) ⑤2009年05月17日 09時41分33秒

(写真をクリックすると大きくなります)===長堀と菖蒲園===
◇◇◇前方が大村湾右側が石垣と板敷櫓台現在は大村公園となっている玖島(大村)城の東側の堀「長堀」と南側の堀「南堀」が菖蒲園となっています。これは昭和36年に熊本より肥後菖蒲、昭和38年に明治神宮御苑より江戸菖蒲を移植したのが始まりで、その後伊勢菖蒲も移植され現在はこれらの3系統の菖蒲があり、花の種類は171種10万株30万本が咲き誇り広さは9500平方メートルもある大菖蒲園となっおり規模は西日本一である。 花菖蒲の開花時期には「花菖蒲まつり」が開催されるようです。◇◇◇
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◇◇◇長堀と菖蒲園◇◇◇
前方が大村湾右側が石垣と板敷櫓台現在は大村公園となっている玖島(大村)城の東側の堀「長堀」と南側の堀「南堀」が菖蒲園となっています。これは昭和36年に熊本より肥後菖蒲、昭和38年に明治神宮御苑より江戸菖蒲を移植したのが始まりで、その後伊勢菖蒲も移植され現在はこれらの3系統の菖蒲があり、花の種類は171種10万株30万本が咲き誇り広さは9500平方メートルもある大菖蒲園となっおり規模は西日本一である。 花菖蒲の開花時期には「花菖蒲まつり」が開催されるようです。

玖島城 (大村城) ⑥2009年05月17日 09時42分13秒

(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸石垣===

玖島城 (大村城) ⑦2009年05月17日 09時42分56秒

(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸から本丸の入り口===

本丸跡の白塀の鉄砲狭間と矢狭間
壁に三角、丸、長方形、の穴がありますがこれはこの穴より鉄砲や弓矢で敵を攻撃するものです。