今日はです

玖島城 (大村城) ⑧2009年05月17日 09時43分30秒

(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸石垣===

◇◇◇搦手門跡(からめてもん) (城の裏門のことを言います)◇◇◇
慶長4年(1599年)の築城の時には大手門でしたが、慶長19年(1614年)の改築の際に搦手門になりました。搦手とは裏口の事です。

玖島城 (大村城) ⑨2009年05月17日 09時44分11秒

(写真をクリックすると大きくなります)===枡形虎口門跡===
枡形虎口とは、二つの城門にはさまれた所が、方形の空間になっており、最初の門と次の門に至る間に左または右に直角に折れて城内に入るものである。最初の門を突破した敵が、枡形の空間で次の門に手間取っている所を取り囲むように攻撃するものです。

玖島城 (大村城) ⑩2009年05月17日 09時45分01秒

(写真をクリックすると大きくなります)===二の丸石垣と白塀===
搦手門側の石垣と白塀

玖島城 (大村城) ⑪2009年05月17日 09時50分51秒

(上写真をクリックすると大きくなります)===浜田謹吾少年鼓手銅像===
◇◇◇戊辰(ぼしん)戦争で奥羽追討の北伐軍に大村藩により出征した326名のなかに、15才の少年鼓手浜田謹吾がいました。明治元年(1868年)9月14・15日、大村藩軍は暴風雨の中を刈和野(かりわの)(秋田県)で大いに奮戦し、角館(かくのだて)へ転進して大功をたてました。   しかし、謹吾少年は15日の刈和野の戦いで戦死しました。その血染の衣の襟には母が出征の際、わが子を励ますために書きしるした歌が縫いつけてありました。 「二葉より手くれ水くれ待つ花は君がためにそ咲けよこのとき」   これをみた現地の人々は大いに感激し厚く葬りました。こうした縁で現在、秋田県仙北市角館町と姉妹都市となりました。少年の墓は、久原1丁目の浜田家の墓地にありますが、大村護国神社境内にも祭られています。◇◇◇
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浜田謹吾少年鼓手銅像
戊辰(ぼしん)戦争で奥羽追討の北伐軍に大村藩により出征した326名のなかに、15才の少年鼓手浜田謹吾がいました。明治元年(1868年)9月14・15日、大村藩軍は暴風雨の中を刈和野(かりわの)(秋田県)で大いに奮戦し、角館(かくのだて)へ転進して大功をたてました。   しかし、謹吾少年は15日の刈和野の戦いで戦死しました。その血染の衣の襟には母が出征の際、わが子を励ますために書きしるした歌が縫いつけてありました。 「二葉より手くれ水くれ待つ花は君がためにそ咲けよこのとき」   これをみた現地の人々は大いに感激し厚く葬りました。こうした縁で現在、秋田県仙北市角館町と姉妹都市となりました。少年の墓は、久原1丁目の浜田家の墓地にありますが、大村護国神社境内にも祭られています。

玖島城 (大村城) ⑫2009年05月17日 09時58分05秒

(上写真をクリックすると大きくなります)===大村純煕公銅像===
◇◇◇大村純煕は、肥前大村藩12代当主。大村純昌の8男。兄11代藩主純顕の養嗣子となり、弘化4年家督を嗣ぐ。藩を勤王方に導き、文武を奨励し、松林飯山を藩校五教館の学頭に据えて学問の振興をはかり、江戸より剣客斎藤歓之助を招いて武道の隆盛をはかった。文久3年長崎総奉行。明治元年の戊辰の役には他藩に率先して新精隊を上京させ、新政府軍に属し東北各地を転戦した。明治2年朝廷に召され、賞典禄三万石を下賜、大村藩知事となりました。◇◇◇
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大村純煕公銅像
大村純煕は、肥前大村藩12代当主。大村純昌の8男。兄11代藩主純顕の養嗣子となり、弘化4年家督を嗣ぐ。藩を勤王方に導き、文武を奨励し、松林飯山を藩校五教館の学頭に据えて学問の振興をはかり、江戸より剣客斎藤歓之助を招いて武道の隆盛をはかった。文久3年長崎総奉行。明治元年の戊辰の役には他藩に率先して新精隊を上京させ、新政府軍に属し東北各地を転戦した。明治2年朝廷に召され、賞典禄三万石を下賜、大村藩知事となりました。