今日はです
武家屋敷(草場小路)① ― 2009年04月19日 10時21分18秒
(写真をクリックすると大きくなります)===武家屋敷草場小路===
(click..play)武家屋敷(草場小路)
肥前大村藩二万七千石の城下町大村です。大村氏は中世から江戸時代を経て明治維新に至るまで、絶えることなく大村地方を治めてきた大名です。その拠点は大村館、三城城と移り変わり、1599年には、初代藩主となる大村喜前(おおむらよしあき)が三方を海に囲まれた要害の地に、玖島城を築城しました。 このとき合わせて、五つの武家屋敷街が形成され、玖島城大手門に通じる[本小路]は、大村家一族や藩の施設が並んだ大通りで、このほか、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路、があり、今でも重厚な石垣が風格を漂わせています。岩船武家屋敷街への道筋にある旧楠本正隆屋敷は武家屋敷の様式をよく残しています。ほかにも、色とりどりの海石を漆喰で固めた大村地方独特の五色塀が小路のところどころに残っています。これらの武家屋敷街は今も生活の中に生きています。
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肥前大村藩二万七千石の城下町大村です。大村氏は中世から江戸時代を経て明治維新に至るまで、絶えることなく大村地方を治めてきた大名です。その拠点は大村館、三城城と移り変わり、1599年には、初代藩主となる大村喜前(おおむらよしあき)が三方を海に囲まれた要害の地に、玖島城を築城しました。 このとき合わせて、五つの武家屋敷街が形成され、玖島城大手門に通じる[本小路]は、大村家一族や藩の施設が並んだ大通りで、このほか、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路、があり、今でも重厚な石垣が風格を漂わせています。岩船武家屋敷街への道筋にある旧楠本正隆屋敷は武家屋敷の様式をよく残しています。ほかにも、色とりどりの海石を漆喰で固めた大村地方独特の五色塀が小路のところどころに残っています。これらの武家屋敷街は今も生活の中に生きています。
武家屋敷(草場小路)② ― 2009年04月19日 10時26分19秒
大村地方の特徴的な塀で、色とりどりの海石の石積みを漆喰で塗り固めたものです。 市内に何カ所か残っていますが、草場小路の五色塀が、塀の延長も長く、石の様々な色・形から最も見応えのあるものとなっております。
武家屋敷(草場小路)③ ― 2009年04月19日 10時31分02秒
武家屋敷(上小路)① ― 2009年04月19日 10時35分06秒
(写真をクリックすると大きくなります)===武家屋敷上小路===
(click..play)上小路(うわこうじ)跡
慶長四年(1599年)領主大村喜前が玖島城を築き、城下に主な家臣を集め、住まわせたのが武家屋敷街の始まりです。当初、本小路、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路、の五つの道りが造られ、「五小路」と呼ばれました。後には、その周囲にも屋敷が建ち、岩船、久原、日向平などの武家屋敷街も出来ています。上小路の呼び名は、古来、この付近の地名を尾上といっていたので,初め尾上小路と称していましたが、後に略して上小路を呼ぶようになりました。家老屋敷などの上級武士の屋敷が多く、五小路の中で最も長い通りでした。正面の白壁のある高い石垣は、家老浅田大学の屋敷の跡です。また、幕末勤王三十七士の中心人物、松林飯山の屋敷があり、大村騒動の発端となった松林飯山の暗殺事件もこの通りで起き、碑が建てられています。現在では江戸時代の屋敷は姿を消していますが、通りら残る石垣群は、昔の武家屋敷街をしのぶ貴重な文化財です。
現地説明版より
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慶長四年(1599年)領主大村喜前が玖島城を築き、城下に主な家臣を集め、住まわせたのが武家屋敷街の始まりです。当初、本小路、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路、の五つの道りが造られ、「五小路」と呼ばれました。後には、その周囲にも屋敷が建ち、岩船、久原、日向平などの武家屋敷街も出来ています。上小路の呼び名は、古来、この付近の地名を尾上といっていたので,初め尾上小路と称していましたが、後に略して上小路を呼ぶようになりました。家老屋敷などの上級武士の屋敷が多く、五小路の中で最も長い通りでした。正面の白壁のある高い石垣は、家老浅田大学の屋敷の跡です。また、幕末勤王三十七士の中心人物、松林飯山の屋敷があり、大村騒動の発端となった松林飯山の暗殺事件もこの通りで起き、碑が建てられています。現在では江戸時代の屋敷は姿を消していますが、通りら残る石垣群は、昔の武家屋敷街をしのぶ貴重な文化財です。
現地説明版より
武家屋敷(上小路)② ― 2009年04月19日 10時40分54秒
武家屋敷(小姓小路)① ― 2009年04月19日 10時42分19秒
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(click..play)小姓小路武家屋敷街説明版
慶長四年(1599年)領主大村喜前が玖島城を築き、城下に主な家臣を集め、住まわせたのが武家屋敷街の始まりです。当初、本小路、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路、の五つの道りが造られ、「五小路」と呼ばれました。後には、その周囲にも屋敷が建ち、岩船、久原、日向平などの武家屋敷街も出来ています。 小姓とは、殿様の側で仕えた家来のことをいい、初め小姓衆が住んだ通りであることから小姓小路と名付けられました。後には、小姓衆だけではなく、他の家臣も住みました。「牢屋の坂」の上からJRの線路を越えて続く通りで、大村の武家屋敷街の中でも、最もまとまって石垣の残っている通りで、武家屋敷の景観を残す貴重な場所です。通りの西端は、大村氏が最初に入った久原城があった場所と大村氏の記録に伝えられています。
===現地説明版より===
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慶長四年(1599年)領主大村喜前が玖島城を築き、城下に主な家臣を集め、住まわせたのが武家屋敷街の始まりです。当初、本小路、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路、の五つの道りが造られ、「五小路」と呼ばれました。後には、その周囲にも屋敷が建ち、岩船、久原、日向平などの武家屋敷街も出来ています。 小姓とは、殿様の側で仕えた家来のことをいい、初め小姓衆が住んだ通りであることから小姓小路と名付けられました。後には、小姓衆だけではなく、他の家臣も住みました。「牢屋の坂」の上からJRの線路を越えて続く通りで、大村の武家屋敷街の中でも、最もまとまって石垣の残っている通りで、武家屋敷の景観を残す貴重な場所です。通りの西端は、大村氏が最初に入った久原城があった場所と大村氏の記録に伝えられています。
===現地説明版より===
武家屋敷(小姓小路)② ― 2009年04月19日 10時45分52秒
(写真をクリックすると大きくなります)===武家屋敷小姓小路跡===
小姓小路跡
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慶長四年(1599年)領主大村喜前が玖島城を築き、城下に主な家臣を集め、住まわせたのが武家屋敷街の始まりです。当初、本小路、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路、の五つの道りが造られ、「五小路」と呼ばれました。後には、その周囲にも屋敷が建ち、岩船、久原、日向平などの武家屋敷街も出来ています。 小姓とは、殿様の側で仕えた家来のことをいい、初め小姓衆が住んだ通りであることから小姓小路と名付けられました。後には、小姓衆だけではなく、他の家臣も住みました。「牢屋の坂」の上からJRの線路を越えて続く通りで、大村の武家屋敷街の中でも、最もまとまって石垣の残っている通りで、武家屋敷の景観を残す貴重な場所です。通りの西端は、大村氏が最初に入った久原城があった場所と大村氏の記録に伝えられています。
===現地説明版より===
慶長四年(1599年)領主大村喜前が玖島城を築き、城下に主な家臣を集め、住まわせたのが武家屋敷街の始まりです。当初、本小路、上小路、小姓小路、草場小路、外浦小路、の五つの道りが造られ、「五小路」と呼ばれました。後には、その周囲にも屋敷が建ち、岩船、久原、日向平などの武家屋敷街も出来ています。 小姓とは、殿様の側で仕えた家来のことをいい、初め小姓衆が住んだ通りであることから小姓小路と名付けられました。後には、小姓衆だけではなく、他の家臣も住みました。「牢屋の坂」の上からJRの線路を越えて続く通りで、大村の武家屋敷街の中でも、最もまとまって石垣の残っている通りで、武家屋敷の景観を残す貴重な場所です。通りの西端は、大村氏が最初に入った久原城があった場所と大村氏の記録に伝えられています。
===現地説明版より===
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